圧倒的孤独感の正体について、キッチンで考えてみた

私は圧倒的孤独感の正体を「自分がやりたいことをやってこなかったからだ」と、結論づけました。
愛し合う人がいない、とか、いつも一人で過ごしている、とかそういう理由ではありません。
誰かと愛し合っていても、人に囲まれていても、孤独感に苛まれてしまう。
その原因を料理をしながら考察し、解決法を見つけました。
『良い子』で育った人(特に長女)は、結構共感してくれるんじゃないかな……。

そんなお話です。

 

親友との会話

圧倒的孤独感とは、私が勝手に名付けたもので、文字通り、自力じゃ太刀打ちできないほど大きな孤独感のことだ。
36歳から急に感じるようになったが、その前にもちょくちょくあった気がする。でも、遠い記憶でもう思い出せない。

圧倒的孤独感を感じる頻度が増えると、私も気分を落ち着かせるまで時間がかかるようになった。
居てもたってもいられないので、ある日親友に電話で相談した。

「職場の人たちはみんないい人ばかりで、私のことも慕ってくれる。でもそんな人たちに囲まれても、寂しくてどうしようもなるんだよね。どうしたらいいと思う?」

「まあ、職場じゃいくら仲良いっていっても、ビジネス上のつきあいだしね。お互い相手のことに踏み込むほど仲良くなるわけじゃないしさ。そんなもんじゃないの」

「確かに、職場じゃ『事務長としての私(当時は、保育園の事務長をしていた)』だからこそ意味がある。でも、職場にいる時間が長い分、私にとっては、本当の自分を知らない人と長く過ごす時間も長くなる。そうすると、自分でも本当の自分が分からなくなっていくんだよ」

「そんなに仕事辛いの?」

「いや、この仕事は楽しいんだけどね。でも、本当にやりたかったことじゃないから」

「やりたいことを仕事にできる人の方が世の中少ないし。みんなそうじゃないかなー」

やや親友が面倒くさそうだったので、この辺でやめることにした。
確かに仕事をしている人は、人にもよるが一日の大半は働いている。
そうすると、親友の言うように誰もが孤独感を感じているかもしれない。
私だけの悩みじゃない……。そう考えれば癒されるのだろうか。

私は内心焦っていた。
この孤独感が続けば、そのうちとんでもないことになるんじゃないかと思っていた。
孤独感と同時にやってくるのが、「人生をやり直したい」という気持ち。これが強くなったら、自殺願望になってしまう。
だから、早めに手を打ちたいと思っていた。

今から思えば、何とか解決しようと思考が働いていたのが、ラッキーだったと思う。
長年悩みに苛まれる人は、同じことばかり考えるループから抜け出せない。悩んでいる状態に脳が慣れると、悩んでいる状態が通常モードだと脳が判断し、悩む状態を維持しようとしてしまう。

話を元に戻すと、親友との多少ちぐはぐな会話と腑に落ちない結末が、かえって考えるきっかけになった。

 

思考の始まり

本当の自分って何だろう……。
どんな人たちに囲まれたかったんだろう……。
この仕事が本当にやりたいことだったら、孤独感はなかったのかな……。

私は、料理を作りながらぼんやりと考え始めた。
その頃の自分は、よっぽど相手と仲良くならなければ、私の好きなもの、例えば文章を書くとか、小説や映画が好きとか相手に話さなかった。
だから、相手も知らない。

思い起こせば、大学時代からそうだった。
大学は工学部の応用化学科だった。化学に興味がないのに、進学したのは私が元々薬学部志望だったからだ。しかし、当時は倍率も高く勉強もできなかったので薬学部はそうそうに諦め、薬学部と同じ試験科目であった応用化学科を受験したわけだ。

しかも、薬学部も別に行きたいわけではなく、本当は芸術系か、文学部に行きたかったのだ。
私は親に反対されても自分の決めた道を通すということが、子どもの頃から一度もできなかった。だから大学進学も、自分の希望ではない。
自分が興味のない学部にいたところで、同じ関心を持つ友人ができる可能性は、低いだ。さらに言うと、私の関心はすごく狭かった。

応用化学科で『漫画版 フロイト』を読んでいる人もいなければ、フィリップ・ガレルの映画を見ている人もいなかった(と思う)。
さらに、その狭い関心を、どうやって自分で表現すれば分からなかった。

文章で書いても、見せるのは彼氏だけ。
それを発表しようともしなかった。

とにかく、受け身的思考と受け身的態度で生きていたからだ。
私は、自分の関心と社会を繋げる方法を全く知らなかった。
試みすらなかった。
どこかの文学雑誌や思想雑誌に投稿するとか、そういうことをしてもよかったのに、そんなことすらしなかった。

それでも、立派に不満は溜まっていく。
自分自身と社会のあいだに距離がどんどんできていく。

「その積み重ねだったんじゃないかな……」
そう思い、冷蔵庫に横たえていると、昔の自分はなんて馬鹿げていたんだろうと思う。
年を取るほど、若い頃放置した問題は、もっと大きくなる。
そんなことを、昔の私は知らない。

でも、極端に行動意欲のない人や自己肯定感が低い人の常識ってこんな感じだと思う。
少なくとも、私はそうだった。
現実に目をつむること自体が、通常モードなのだ。
思い返せば、大学の授業も一度もまともに聞いたことがない。
現実は常に、私の頭の中では「シャットアウト」だった。
多分、心から嫌だった中学受験の頃からずっと。

どう考えても異常である。
そうやって、自分の関心を無視して、進路も就職もずっと「今の自分にできること」「周囲から反対されないこと」をモットーに生きてきた結果、今の自分があるのだ。

人は何らかの形で、社会の中で自己表現できる場を探していく。
その努力を怠れば、周囲の誰も私がどんな人間かは知らない。
だから私も、安心した気持ちで社会の中にいられない。
いつでも気を張って、望んでいなかった仮面をつけなければならない。

それは、私が何一つ自分を表現してこなかった報いである。
全ては、自分の責任だった。

それが圧倒的孤独感の正体である気がした。
私はキッチンを出て、メモを書いた。

『黙っていても私がどんな関心を持っているか、人に分かってもらえる人間になること』

こうして、解決法を見つけた。
過去を振り返って私なりに考察できた理由は、仕事のおかげだった。
自分で判断することを、中間管理職で鍛えられたからだ。
私の努力が実った数少ない例である。

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