無意識が教えてくれるもの from ストックホルム🇸🇪【後編】 〜ユング派分析家へのインタビュー〜

無意識が教えてくれるもの from ストックホルム🇸🇪【前編】〜ユング派分析家へのインタビュー〜の続きになります。

目次

他者とつながるために、自分を知る

ー藤南先生の話を聞いて、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を思い出しました。
主人公の男性は、妻が急に失踪し、一生懸命妻の行方を探すのですが会うことができません。
妻とつながりたいけれど、つながることができない彼は枯れた井戸の中に入るんです。
そこでじっとしていると、彼はある日井戸の壁を抜けて別の世界に行きます。
そこで、戦争体験を持つある日本人と出会います。
彼は自分自身である個人を追求した結果、日本の歴史に繋がったのです。
主人公は、その後ようやく妻とつながることができます。
主人公の壁抜けは、無意識へのアクセスと同じ気がしました。

「その本は読んでいませんが、まさにそのイメージですね。
周りとつながるためにも、まずは自分の中に潜っていく。

だから、ユングの言葉でいうと「個性化」、巷では自己実現といわれるものは自分勝手になる意味ではないんです。自分のなかに潜っていけばいくほど、周りとも繋がれるいうことが起きると思います。」

ー『個性化』とは、先生のブログで書かれていた「個人が意識的に何か、あるいはどこかを目指そうとする類のものではなく、自分の中からひとりで出てこようとするものに従う過程ですね。

私自身20代の頃に『ねじまき鳥〜』を読んだ時は、「そんな井戸に入っていないで、なんとかして奥さんを見つけて話し合えばいいじゃないか。相手と直接向き合うことが先なんじゃないか」って思ったのですが、結婚して10年経った今では、この主人公の行動が正しいと思うようになりました。
まずは、自分がどんな人間か分からないと他者とは本当には繋がれないと思います。

つまり、精神分析をとおして、自分の神話を見つけることは、完成した自分になること。
でもそれは、自己完結するものではないのですね。

「自己完結するものではない、その通りです!
人間を社会的な動物と見て、社会のなかに居ながら、人間関係のなかで自分を成長させていこうというのがユング派の分析が目指すところです。

出家僧のように俗世間を離れて厳しい修行をすることによって到達する境地とは違います。繰り返しになりますが、ゴールには一生、たどりつきませんので、”完成”はありません。ユングの言葉では”全体性”を目指して、偏りのできるだけ少ない、より全体的な存在になるよう少しづつ進んでいく、そのプロセスに意味があります。」

ー精神分析の目的とは、周囲と繋がるためのもの。社会のなかで生きやすくなり、結果的に幸福になるためのものだということなんですね。

「おっしゃる通りです。幸福の定義も難しいですが。」

ー自分の神話を作る過程で、自分が受け入れたくないものも多々発見するかと思うのですが、そういったところも乗り越える必要はありますでしょうか。

「乗り越えるというと努力とか苦痛が伴いそうですけど、そういうものでもないんですよ。ユング用語ではシャドー(影)って言うのですが、見たくないもの、臭いものの蓋を開けてみたら、たいていそんなに臭くないんです。むしろ、そこに自分の今まで気づかなかった可能性があるので、自分が受け入れたくない性質ほど、受け入れることで自分の魅力になっていくんですよね。だから、軽い気持ちで、嫌なんだけどちょっと見てみようかと思って見てみたら、案外面白いじゃんってなる。そういうことが次々に出てくるので楽しい作業なんです。

それに、臭いものの蓋って、開けるタイミングが来ていないときには、心理的防衛機制というブロックがかかるので、たとえ意識的にがんばっても開きません。苦しくてたまらないけどこじ開けるということは現実には起きませんから、そういう意味ではあまり怖がる必要もないんですね。いよいよ蓋が開きそうになってきたところで、たとえば、やっぱり分析なんてやったって仕方がないなど、意識が別の理由を見つけて、もう分析はやーめたということだってあります。」

ーよく長所と短所は裏合わせって言いますよね。欠点をまるごと受け入れると、魅力の面を自分のものにしていけるという解釈でよろしいでしょうか。

「そうなんです。あと、「影」って、意識的に向き合わなくても、必ず出てきて問題を起こすので、向き合って味方にしておいた方がいいとも言えます。

側から見てどんなに素晴らしくて完璧に見える人でも、必ず影はあるんです。
とくに世間的な成功をしていたり、脚光を浴びている人であればあるほど、光が強い分、影も濃くなります。本人がその影を自覚しないと、後々なんらかの形で代償を負わされる可能性が大きいんです。

本人ではなく、周りの人がその暗い部分を引き受けることもあり、それって家族関係のなかではよく見られることです。たとえばピカピカの芸能人の子供が、親の影を引き受けている例なんて、すぐに具体的な例が浮かんできませんか。

その代わり、影を自分で引き受けられたら、現実で影がモノを立体的に見せるように、奥行きや深みのある存在になれます!

平面的な自分から立体的な自分になるというイメージが、さきほど言った、ユングがいっている全体性に向かって成長するということでもあります。そう考えると、影って決してネガティブなものではないでしょう?」

ー無意識につながるプロセスで、光と影を共に受け入れる力を手にできる。そんな作用が精神分析にはあるのですね。

 

全体性に向かっていく

ーこれまで、クライアントさんの夢分析で印象的な夢などはありますか?

「夢分析では、毎日、感動していますので、とくに印象的な夢と聞かれると難しいのですが、夢には、夢を見た人の状況や心境や課題にぴったりマッチする登場人物やアイテムが出てくるのには感心します。

普段本人が意識していない、まったく興味のないアイテムが夢に現れ、的確にメッセージを伝えてくれるということはしょっちゅうあります。

たとえば、クライアントさんの夢にミニオンのキャラクターが出てきて、クライアントさんはそのキャラクターになんの思い入れもなければさっぱり連想も浮かばないので、『なんでこんな夢を見たんだろう?』ってセッションで話しているうちに、すごく重要な意味が浮き彫りになってきて、その意味は、このキャラクターでなければ表現できない、無意識サマのチョイスってすごい!と、2人で感動したことがありました。

ストックホルムのオフィスで日本在住の方とオンラインセッションをして、そのあと帰宅しようと電車に乗ったら、その車両にスウェーデン人の子供が大きなミニオンの風船を持って乗っているんですね。流行っていたわけでもなければ、それまでそんなものに出くわしたこともないのでびっくりしました。

そんな風に、クライアントさんがご自身の無意識とつながるだけでなく、クライアントさんの無意識と私の無意識がつながり、さらにわたしの無意識が現実の事象とも繋がっていくシンクロニシティが、夢分析をしているとよく起こります。」

ーその人の物語が見えて、自分の物語にも繋がっていくのですか。自分の生活のなかで実際に感じられるのは、びっくりするでしょうし感動しますよね。

「そうなんです。でも、夢の意味が、ストンと腑に落ちるときのあの感覚や感動はなかなか伝えにくいもので、とくに夢分析については、人の夢分析の話を聞いてもわからないと思います。

夢分析についてどんなにたくさんの本を読んでも、ふーんで終わっちゃって心に全く響きません。

長年、この感覚や感動を上手に伝えられないことにもどかしさを感じていましたが、最近は言語化できないことや、他の人とは共有できないことに価値があるような気もしています。
私とクライアントさんだけの秘密なんですよ。
夢が教えてくれる大切な物語の一部は、他人には教えられないし、共有してもらう必要もないんです。」

ークライアントさんが深層意識に降りていく作業中だから、より面白い、より興味深い夢を見るのでしょうか?

「いえ、それは全然そうではなくて、精神分析や夢に全く興味がない人が見る夢も面白いです。夢分析を始めた頃に見るイニシャルドリームって言われる夢に特別な意味があることも多いし、大昔に見て忘れられない夢にも大切な意味があります。

といっても面白いとか興味深いというのも、わたしたちが理解できるからそう判断しているだけで、夢の真意をわたしたちが理解できないために面白いと思えないだけという場合もありますが。

同じ夢を何度も見ることがありますが、夢のメッセージを本人がキャッチしないうちは同じような夢を繰り返し見ます。無意識が、一生懸命メッセージを伝えようとしているのに、なかなか気づいてもらえないと言わんばかりです。

夢分析で、『無意識は何が言いたいんだろう』『どういうことだろう』って考えて、『こういうことなんじゃないか』って考えつく。もしそれが”当たって”いたら、同じ夢は見なくなるんですよ。無意識が私たちに教えたいことがいっぱいある中、とくにぜひ気づいてほしいということは、何回も同じイメージで伝えてくれる感じがします。

『無意識が伝えたいのはコレか』と気づいた瞬間に、その夢はもう見なくなって、こんどは次のテーマを含んだ夢を見るようになる。分析が進むと、夢がはっきり変化していきます。」

ー私も何度も同じ夢を見たことがあります。そこまで無意識が何度も教えてくれる意味ってなんでしょう?無意識は何の目的があって教えてくれるのでしょうか。

「荒川さんの無意識の具体的な意図はわかりませんが、全体性を目指しながら一生成長に向かわせるという目的があるのはたしかだと思います。

全体性は、私たちがもとは持っているもので、赤ちゃんは宇宙の一部として完全な状態でこの世で生を受けますが、環境に適応しながら生き延びるためには、養育者のニーズに合わせることから始まって、友人や社会に合わせなくてはいけません。それって、全体の中の一部を発達させていくことなので、成長して大人になるということは、ある意味、偏りを持つことなんですね。

右利きの人は、左手では単純なことでも上手くできないように、自分の得意な生存戦略を使い続けると偏りができていきますよね。それって、最初は小さいながらも完全な球体だったのが、だんだんいびつな形になってきて、一部は空気がパンパンに入っていて破裂寸前だけど、別の一部は空気が抜けてぺこぺこになっているみたいな感じ、たった今思いついたイメージですが、それが大人の姿と言えます。

それは大人になるためには必要なことなんです。でも後半の人生では、こんどはその偏った部分をバランスが取れた綺麗な丸い球体に戻していくことが、無意識の目的、ユングの言う個性化だと思います。

球体に「戻す」といっても、ここで目指す完全な全体性っていうのは、赤ちゃんのときの全体性とは違うものです。純粋無垢だった自分を思い出しながらも、ただ無邪気になるのではなく、賢く老いていく。夢はそのためのメッセージをくれますが、それを教えてくれるのは、夢だけではないんです。

うつ病だったり神経症だったりもそうです。偏りのあるところに限界がきているから、このまま突っ走るのはやめた方がいいというメッセージ、そのために立ち止まらせてくれるんだと私たちは捉えるんですよ。」

ー全体性に近づく努力というのは、なかなか想像しづらい努力ですね。どんな努力が必要になるのでしょうか?

「勉強を頑張るとか仕事を頑張るとか、そういうのとは全く違いますからね。
そういう自我の努力ではなく、むしろ自我がコントロールしようとすることをやめる、自分の小さい頭でどんなに考えても無駄だとか、意識が支配できる領域はしょせんちっぽけなものだということを受け入れて腹を括るという、たぶん努力という言葉が該当しない態度みたいなものかと思います。」

 

藤南先生ご自身について。海外生活から与えられるもの

ーここで、藤南先生ご自身について、質問させていただこうと思います。分析家として、クライアントさんと心の世界に触れると、ご自分の日常生活に支障が出たり、影響を感じたりすることはありますか?

「分析というのは、神聖なビーカーの中の完全な密閉空間で行われる作業で、ふたりの意識と無意識が混ぜ合わされる特別な時間と空間なんですよね。

だからそこを出た瞬間に、自分の無意識はそういう風には動かなくなって、自分の意識だけがのさばるようになります。他の分析家の方のことはわかりませんが、日常のわたしは分析家ではありえないので、支障も影響もあまり感じません。」

ー特に切り替えは必要ない?

「切り替えたくなくても、勝手に切り替わるんです。(笑)
昔は夫婦喧嘩するとよく夫に「これで心理の専門家とはまったくあきれる!」と嫌味を言われてました。最近は、慣れたようですが。話がそれましたが(笑)」

ー(笑)クライアントさんの心情に引きずられることはないのですね。

「まったくないとは言い切れませんが、分析家になるための訓練にはそういうことが含まれています。」

ー最後に、海外生活が長いようですが、個人的に、海外生活から与えられたことはありますでしょうか

「自分が日本人だからこんな風に感じるんだって気づかされることは本当に多くて、それは面白い体験ですね。

例えば、スウェーデンでは大人も子供と同じぐらいの休暇がありますが、個人商店でも平気で夏に2ヶ月も休業しているのなんていまだに驚愕します。

皆勤賞は美徳と信じていたのに、ヨーロッパでは「機械じゃあるまいし」って全然、褒められないばかりか、おかしな人扱いされたり。

例を挙げればきりがありませんが、日本文化のいいところも悪いところも、海外生活を通してよく見えてきます。」

ー日々発見や驚きがあるのは、楽しいですね。

「日本人メガネを通して見えていたひとつの見え方に、別の見え方もあるんだって発見できると、それは自分自身の領域を広げることにもなって、さっきのユングの個性化のテーマとも関わってきます。

ヨーロッパ人的感覚を理解したり取り入れたりすることは、日本人としてカチカチになって発達させてきたものを緩めたり、未開拓の側面も耕していくことですから、それは、自分の全体性を追求し、いびつな形になっている球体を少しでも完全な球体に近づけることに役立っている気がします。

日本からわたしのオンラインセッションを申し込んでくださる方の中には、外国に住んでいるからという理由でわたしを選んでくださる方が結構いるのですが、その方たちって、無意識のうちに、「日本人メガネ」を外した見方を希求されているかもしれませんよね。

もしかすると、今回、わたしを見つけて、インタビューを申し込んでくださった荒川さんも、ですか?(笑)」

ーはっ。ええ……、恐らく。その通りだと思います!(笑)
本日は、ありがとうございました。

 

あとがき

今回は、個人的に関心のあった精神分析や無意識について、藤南先生に伺いました。
オンラインでのインタビューでしたが、画面を通しても伝わって来る藤南先生の優しさと知性に癒された特別なインタビューでした。
藤南先生のお人柄もあり、硬く真面目な印象だった精神分析が、習い事を始めるかのように取り組めそうな印象に変わりました。
といっても、習い事と同じように、本人の努力はある程度必要そうです。

精神分析に惹かれる人たちは、理性や論理が支配しない無意識が存在すること自体に、どこか安心感を感じるのではないでしょうか。
自分の裾野を現実世界とは違うもっとロマンティックな形で広げていけるんじゃないか、と希望を感じるかもしれません。私もそのひとりです。

自分の神話を見つけ、無意識につながってブレない軸を持てたなら自分の人生のなかにも神話の登場人物たちが背負う運命や魂を感じるかもしれません。
もし、そうなったら目の前の小さな出来事や悩みに振り回されることも減り、広い心と視野でこの世を生きていけるのではないでしょうか。

最後に、藤南先生のお言葉で自分には「日本人メガネ」を外した人と話したい欲求があるのだと気がつきました。私自身、幼少の頃アメリカに住んでいたせいか今でも異邦人感覚で世の中を見る癖がついています。物書きを志す者としては良い癖かもしれませんが、ひとりの人間としては常に寂しさが拭えず長年の悩みでした。でも、先生のお言葉で自分がこれからどんな人と繋がろうとすればよいかひとつのアドバイスをいただいたと感じています。

素晴らしい出会いは、ーそれが人であれ本であれ出来事であれー、また次の素晴らしい出会いを呼び起こします。もちろん、同じ人とのあいだのなかにも新しい出来事との出会い、知見との出会いはあります。
そんな予感を感じています。
藤南先生、ありがとうございました。

おわり

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